見えない壁を越えて



朝から晴れていた。
昨日の雨がすっかり乾いた空に、強い日差しが差し込んでいる。

今日は、案件の核心に触れる日
――告発者である女性と、初めて直接対面することになっていた。

午前10時、梶法律事務所の応接室。私は10分前に到着し、
打ち合わせ用の資料をテーブルに並べながら深呼吸をひとつ。

たとえ何百件と案件を重ねていても、告発者本人と向き合うこの瞬間だけは毎回緊張する。
相手の人生が変わるかもしれない分岐点に、自分が立ち会っていることの重みを感じるからだ。

ドアの開く音がして、彼女が姿を見せた。
肩までの黒髪をきれいに整えた30代半ばの女性。スーツの色は落ち着いたグレーで、
顔にはほんのわずかな緊張が浮かんでいた。けれど、その目はまっすぐだった。

梶先生は、相変わらず淡々と、しかし丁寧な言葉で彼女を迎えた。
私は横で静かに頷きながら、彼女の語るひとつひとつの言葉に集中する。

「最初は、ちょっとしたミスだと思ってたんです。帳簿の数字が合わないのも、
たまたまかなって。でも、何度見直しても一致しなくて……他の人に確認しても、
口を濁されて」

そのときの空気の重さを、彼女は言葉の端々に残していた。
孤立感、不安、そしてそれでも踏み出した勇気。
彼女はゆっくりと話し続ける。

経理部の上司が急に口調を変えたこと、メールの履歴が突然削除されていたこと。
社内で浮いた存在になっていく過程を、淡々と、しかし噛み締めるように語っていく。

「誰にも相談できなかったんです。怖かったし、間違ってるのは私の方かもしれないって」

私は、そっと言葉を返した。

「でも、そう感じながらも行動に移された。それは、正しいか間違いかじゃなくて……
誠実だった証拠だと思います」

彼女は少し黙り、それから小さく頷いた。

梶先生も、静かに補足を入れる。
「この案件が法的にどのように進んでいくかは、これからの証拠の積み上げ次第です。
ただ、事実に対して誠実でありたいというお気持ちは、私たちにとって何よりの信頼材料に
なります」

会話の流れの中で、彼女の緊張が少しずつ解けていくのが分かった。
肩の力が抜け、時折、小さな微笑みが浮かぶようになった。

「すみません、緊張して。でも、おふたりに会えてよかった。少し、安心しました」
その言葉に、私も少しだけ胸が熱くなった。

この仕事をしていると、数字や証拠ばかりを追いがちになる。
けれど、誰かの不安や孤独に耳を傾けることも、探偵として、あるいは人として、
すごく大切なことなのだと改めて感じた。

打ち合わせが終わり彼女が帰ったあと。
私は梶先生としばらく、彼女の話の中にあった細かな点を再確認した。
メールの削除、帳簿の不一致、上司の態度の変化。すべてが一方向を指し示していた。

「美間さんの言葉、効いてましたね。安心して帰られたみたいで」
と梶先生がぽつりと言った。

「それならよかったです。誰かの“確信”を支えるのが、私たちの仕事ですから」
応接室の窓の向こう、街路樹の新芽が風に揺れていた。

見えない壁を越えた一日。次に越えるべきものが、少しだけ、見えた気がした。




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