はじまりは一本の電話から



事務所で古い調査記録のファイルを整理していた昼過ぎ、電話の着信音が鳴った。
ナンバーディスプレイに映る「梶法律事務所」の名前を見た瞬間、背筋が少し伸びた。

受話器を取ると、懐かしい声が静かに響く。
「お久しぶりです、美間さん。今、少しお時間ありますか?」
――弁護士の梶 隆之(かじ たかゆき)先生。
冷静沈着で、一つ一つの言葉を丁寧に選ぶ話し方。
私が以前協力した労務問題の案件でご一緒して以来、もう3年近くになる。

内容をざっと聞くと、今回の依頼はある中小企業に勤めていた女性社員が行った
「内部告発」に関する事前調査だという。
会社の経理処理に不正がある可能性があり、彼女はそれを証明するために動こうと
しているが、法的措置に踏み切るには証拠が足りない。
しかも告発者本人の立場が微妙で、会社との関係も完全に断ち切れているわけでは
ないらしい。

「少し複雑な背景がありまして。美間さんのような、冷静で粘り強い調査員が
必要なんです」

「粘り強い」…そう言われると悪い気はしなかった。
私は好奇心と責任感の両方で動いているようなものだ。

会話を終えたあと、すぐに地図アプリで法律事務所の場所を確認。
いつものクセで現場を見ないと気が済まないのだ。

午後3時過ぎ、梶法律事務所に到着。
築年数は浅いが、無機質になりすぎないグレーの外壁と、控えめなプレート。
室内は静かで落ち着いた空気が流れていた。受付を済ませると、すぐに梶先生が現れた。
身長は180センチほど、黒縁の眼鏡に深いネイビースーツ。
所作一つひとつが無駄なく美しく、まるで整った文章のようだった。

応接室での打ち合わせは実にスムーズだった。
告発者の名前、これまでの経緯、会社の業種、経理処理の不審な点…。
必要な情報が簡潔に並べられたファイルを手渡されながら、彼は言った。
「探偵の視点で、この会社の“表と裏”を見ていただきたいんです。
事実が歪められていないか、常識的な観点で再確認してほしい」

私は資料をざっと読み、案件の骨格を頭に入れる。
内部告発が本当に正当なものか、あるいは感情的な判断にすぎないかを見極めるのも
仕事のうち。
すべてが白黒はっきりしているわけではないけれど、こういう曖昧さの中でこそ、
私の経験と直感が役に立つ。

最後に、梶先生が静かに言った。
「人を傷つけない調査は、存在しないかもしれません。でも、
守れる人はいると思ってるんです」

その言葉に、私は心の中で深く頷いた。
探偵として生きてきたこの20年。その間に多くの「秘密」を見てきた。
その中に確かにあった「守るべきもの」――私はまた一つ、それに出会おうとしていた。




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